グレート・ギャツビー  村上春樹訳

 

グレート・ギャツビー

村上春樹さん訳の「グレート・ギャツビー」を読みました。

誰の本なのか実家に1920,30年代のハリウッド女優の写真集があった。

暇あれば暗い部屋で眺めていたせいか、大方の女優の顔と名前は一致する。

フィッツジェラルドの他作品に登場するヌードショー女優ジョセフィン・ベイカーの顔も知っている。

ジャズ・エイジ・・・と呟くだけで、かすりもしないこの時代に私が郷愁に似たものを感じるのはそういった事情があるのかもしれない。

この作品はそんな私が好きな20年代の禁酒法の時代のアメリカが舞台になっている。

巨万の富を得た主人公ギャツビーは囁くような声を持つ奔放で蝶のように美しいデイジーを愛している。

彼女の隣に邸宅を構え、暗い海はるか遠い緑の灯に両手をさし伸ばす。

そんなギャツビーの姿は一分の隙もなく、悠然としてグレートだ・・・。

オックスフォード大卒の人間しか使わない「オールド・スポート」という言葉で人に呼びかけるギャツビー。

そして真実の彼はギャッツが本名の貧しい少年だった・・・。

ギャツビーの遥か遠く手を伸ばす先は、富や名声ではない。

摑み所のないデイジーの心にある。

夜毎に催されるパーティーは彼女のためのものであった。

私の一番好きなギャツビーの回想・・・星に打たれた音叉に耳を澄ませ、白い月光の夜、枯葉の舞う街路を歩く恋人たちの姿は、花の香りのようにため息が出るほど幻想的で・・・そして泡のようにはかない。。

彼は彼女を信じ続けるが、対するデイジーは一瞬心は揺らぎ惑うものの、富豪の夫のもとに帰っていくのだから・・。

ギャツビーの想いは失意のうちに唐突な死を持って終わりを告げる。

この残酷で悲哀に満ちたラストに、苦しくやるせなくも心魅かれた人は多いのではないだろうか。

何故なら大方の人は美しい幻や夢を打ち砕かれた後も容赦ない現実を生き続けていくしかないのだから・・・。

この小説には富・・・華やかな世界と合わせ鏡のように、遥か遠い幻(愛)、孤独、そして死がある。

そしてそのことで、人はこのジャズ・エイジ時代のアメリカ人の享楽的、楽園の世界に、何かメロディーのように一層はかない美しさを感じるのではないだろうか。

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シーシュポスの神話  ーカミュ

 

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

私もたまには新刊本の感想を書いてみたいと思い、角田光代、伊藤たかみ、吉田修一・・と図書館でリクエストしているのだけれど100~200人待ちらしく全く連絡がない。

そこで手元の挫折本、「シーシュポスの神話」を無謀にも読むことにしました。

この本はたった6ページの短篇。なのに3回も読み返してしまった。

哲学に暗い私には難解で、この本を読む資格はないのかなーなどと多少思ったりした。。

ー罪深いシーシュポスは神から岩を山頂に押し上げる仕事を刑罰として課せられる。

やっと頂に到着したその岩はたちまち遥か下に転がり落ち、彼はまた頂上に押し上げなくてはいけない・・・。

この小説は多分「人間はいかなる不条理な出来事に対しても常に意識的でなくてはならない」、つまり神を追放し人間自らが絶えず思考するということが大切であるーということがテーマである・・・と思う。

くだらないことや不条理なことがらに対して無思想、無意識ではなく有意識(そんな言葉ないけど)に思索をめぐらせ、苦悩を受け入れる。そのことにこそ人間の幸せがあり、神を凌駕した勝利があり、すべてよし・・ということなのではないだろうか??

ルーチンな仕事に追われ日常を生きる私には、あまり心に寄り添わない言葉ではあるけれど・・・。

そして「不条理な人間は自らの責め苦を凝視することで一切の偶像を沈黙させる」

「一つの世界を形作る頂上を目掛ける闘争だけで人間は十分満たされる」

と書かれている。

この闘争のなかには苦悩、思考することによる充実感みたいなものもあるだろうと思う。

そして「シーシュポスの神話」を通じ、カミュは神を否定しているのだなとわかる。

私の考えが的外れであろうと多少そうでなくても、ここまで感想を書いていてあんまり面白くはなかった。物語が私には難解すぎて・・。

私は不条理うんぬんの世界より、「私をこの世界につなぎとめるものは若い娘のみずみずしい手である」という描写や、「異邦人」を彷彿させる太陽、焼けた石、輝く海、入り江の曲線、大地の微笑・・・これらの幸福の呼びかけにこそ、心が反応する。

人生は美しいと私は信じたいから。。

どなたか(私には)この難解きわまる小説を噛み砕いて教えていただけないでしょうか・・・。

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三島由紀夫の「鏡子の家」を読んで思うこと

三島由紀夫の「鏡子の家」を読みました。

恐ろしくももの哀しいフェリーニの「甘い生活」という映画があるけれど、三島由紀夫は「鏡子の家で僕の甘い生活を書きたかった」と語っていたらしい。

この本は鏡子という名門の女性の住む館に、新進日本画家、年若い美貌の役者、ボクサー、エリート商社マン・・・といった人間達が集うサロンを中心に物語は進む。

美しくも享楽的、退廃的なこの世界にこっそり忍び込み眺めていたいような、そんな気持ちに駆られる。

現代もどこかでこういったサロン的な集いは繰り広げられているのだろうけれど、それはこの鏡子の家の集いに比べ、はるかにもっと屈託のないものであるように思う。

戦後十年という時代背景もあいまってかこのセレブリティーの集いにはどこか陰鬱としたものを感じずにはいられなかった。

彼らは何を目的とし、集うことで何を求めていたのだろう・・・。

映画「甘い生活」を既に観ていたせいか、私にはこのサロンを支配している陰鬱なもの、それは「死」そのものであるーという気がした。

死の雰囲気に魅せられた人間達が集っていたのではないだろうか。

世界の滅亡を信じるエリート、体を鍛え上げた後心中する俳優、手を負傷するボクサー・・。

青年画家は絵が描けなくなり精神が破綻する。

そしてこの小説で三島由紀夫は「愛し合っていないということは何と幸福だろう。なんて温かみのある事態なんだろう」と書いている。

こう書くことでこの小説は完璧なものとなっている(ように思う)。

でも果たしてこれはこの作者の本質なのだろうか。

彼は男性らしさ、強さを具現化したような作家であるが、ある女優との対談では「僕はもし好きな人ができたら好きだ、好きだって言える人間だよ」と語っている。

そして小説よりは人間味が感じられる「不道徳教育講座」等の随筆。

このあたりに意外に彼の本音が多少隠れているのではないだろうか。

そのようなことを考える時、この「鏡子の家」に限らずどの作品を読んでいても、三島由紀夫とはいつも何か私の心を切なくさせる作家なのである。

(「鏡子の家」の感想っぽくなくてスミマセン)

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ランゲルハンス島の午後  村上春樹

本棚の整理をしていて、懐かしい本を見つけた。

大好きな村上春樹さんの「ランゲルハンス島の午後」。

忘れている章が多く、安西水丸さんのイラストを楽しみながら再読しました。

今回、読んで私がこんなにソフィスティケイテッドなエッセーを高校時代に読んでいたんだ!というのは驚きだった。

今、よく耳にする「小確幸」・・・という村上さんの造語も何故かとっくに知っていて、どこかで聞いた記憶があるなーと思っていたら、このエッセーを読み知っていたのだった。

 

村上さんのエッセーの題材のセレクトの素敵さにはうっとりしてしまう。

午後の静かなレストランで白ワインを舐めながらチェホフを読む贅沢な時間、おろしたてのコットンのにおいのTシャツを頭からかぶる気持ち。

トロピカルココナツのシェービングクリームを手に街を歩いたり、小さな町で葡萄一袋、フィリップ・K・ディック(を私は知らない)3冊を買い、列車でまとめ読みする楽しみ。。

非日常を味わいたいと考える時、クラシックコンサートや美術館、遠方への旅行などを発想しがちな私だけれど、村上さんのエッセーを読んでいると、小さな幸せはいたるところにあり、そこにほんの少し素敵エッセンスを纏えば、日々満ち足りて生きていける。オオゲサに言うとそんな小確幸のために人生はある・・・という気さえしてしまう。

一中学生が学校近くの川岸にいてもランゲルハンス島の春の午後を味わうことはできるのだ・・・。

この本で村上さんが語るところの女子高生は、ちょうど今私くらいの年齢になっているはずである。

「パートタイム・ラヴァー」が大音量で流れる店で友人とパフェを食べた記憶もあり、「女子高生の遅刻について」の章があるが、私もあわてもので遅刻が多かった。

遅刻といえばTVドラマ等では可憐な少女の定番。また可憐な女優が演じていたりするが、経験者から言うと、その思い出は恐怖、焦り、絶望・・・・と、今、思い返しても少しも可憐なものなどではない。

村上さんのこの本も読んでいたはずなのに、素敵エッセンスは私の青春に少しも還元されていた様子はない。

でももし、村上さんがこのエッセーのように、私が通う高校の前に立つホテルの四階の窓辺に立ち、そんな女子高生の私を眺めてくれていると想像したなら・・・。

冴えぬそれらの遠い記憶たちも、何か洗練の匂いをまとうような、そんな気分になるのは不思議なことである。

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百代の過客  ドナルド・キーン

ドナルド・キーンさんの「百代の過客 日記にみる日本人」を読みました。

昔、知人に頂き、読まずにそのままになっていた本です。

ただ私が今回読んだのは名前に馴染みがあり、聞いたことがある日記の章のみ・・となってしまった。(中納言内侍日記?海道記?弁内侍日記??聞いたことのない日記については記述を読んでもわからず、あまり面白くないかな・・と思い)

私は、紫式部が日記で批判する清少納言の「枕草子」が全て読んだわけではないけれど結構好きだ。

「はるは、あけぼの。」で始まる随筆は季節の移ろい、花、情景などに寄せる豊かな心が詩情に溢れている。

「あわれ」の世界もいいが「おかし」の世界も趣がある。

なのに、今回この本を読み、私が一番印象に残ったのは意外にも「蜻蛉日記」の章であった。

枕草子とは対極にあるような日記である。

この本によると「藤原兼家の妻である作者は、自分自身、夫、息子以外のものに対してはひとかけらの関心も示していない。夫に顧みられぬ妻の心情が憂愁の記述で彩られている」とある。(この日記の概要だけは知っていて確かにそんな感じの日記だったなーと覚えている)

またライバルの不幸・・・子供の死産に彼女が狂喜するくだりはキーンさんも驚愕している。

確かに、非常にエゴイスティックな日記であり、決して美しくはない。

ただ自分の醜い心情をいっさい美化したり飾ることなく、嘘偽り無くストレートに綴る。

これは簡単な様でいて決して普通の感覚を持つ人間には真似できない技なのではないだろうか。

だからこそこの日記は文学にまで昇華されているのであり、現代の私小説のさきがけ・・と言えるのかもしれない。

またこの蜻蛉日記の作者と、一般的に美しく賢女であるイメージが強い「源氏物語」の紫の上を性情が同じ。。と重ね合わせている分析も面白かった。

日本人より日本人らしいキーンさんの文章に引きこまれ、その他の日記の章も大変興味深く読み、勉強になりました。

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愛がいない部屋 -石田衣良

愛がいない部屋(集英社)

石田衣良さんの「愛がいない部屋」を読みました。

神楽坂の超高層マンションを舞台にそこに住む住人達の様々な人間模様を描き出す短編集。

アルマーニ、高層マンション、北欧家具、・・女性が好みそうなキーワードが並ぶ。

この小説を読んで私が驚嘆したのは、石田衣良さんが男性であるにもかかわらず、この小説が描く女性が、男性の視点ではなく女性からの視点で現代の女性を冷静に見つめている・・・という点であった。

おそらく(特に男性読者が読んだ場合)総じてあまり愉快ではない女性が多いのではないだろうか。

作者の名前を聞かなければ女性作家の作品かな。。と思わせるものがある。

例えば育児をしながら在宅で翻訳の仕事をする女性は、子供は愛しいが「私」を喪失させる存在であり、女は子供に自分全てを投げ出さなければならないのか?と自問自答する。

例えば出会い系サイトで知り合った男性と、夫がいながら情事を重ねる女性は良心に一点の曇りもない。

例えば部屋の模様がえをすることで何か夫との新たな関係に未来を見出そうとした妻は、夫の意外な女性関係の告白に、「この男は告白することで自分が楽になろうとしているだけだ」と感じ格別動揺もしない。 もともと夫に愛情などなかったのだ。。。

 高層レジデンスに居を構えながら、現代の縮図ともいえる短篇の数々に幸福な人間は登場しない。

   全編を通じタイトル通り、愛も、そしてやさしさも(ホームシアターに多少垣間見られるが・・) 感じ取ることは出来なかった 。

 これが イマドキというものなのだろうか。そうだとすれば・・・何かなんともやるせない。

 

 そしてそれは 作者自身、現代という時代にそれらを見出すことが出来ない・・・と感じているのからなのではないだろうか?

 

   この都会的な小説を読み、そして時々テレビで見かける石田さんの顔を思い浮かべながら、ふとそんなことを思ったりした。

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春の道標 黒井千次vs柴田翔

黒井千次さんの「春の道標」を読みました。

たまたま先日新聞に紹介されていたというだけの理由で、黒井千次という名前も作品も知らず私には初めて出会う小説家だった。

60年安保の時代の青春を描いた作品。

この時代の高校生達は皆、熱い。

そんな中、主人公明史は思想的空論よりも恋愛にアイデンティティーを見出す。

   

   彼女の視線は間違いなく僕の存在を知っていることを意味する。

   ようやく初めて交わした言葉。

   気になる彼女と親しい年上の男の存在。

   そして彼女は自分の人生の全てであり、唯一無二の存在である・・・・・・・

    

 ラスト、一人思い出の丘に向かう明史は失恋と同時に未来をも失い、絶望感に苛まれる。

 

 彼女への思い込み、そして打ち砕かれた幻想。

 誰しもがおそらく経験のある青春、初恋を鮮やかに描いている。

 このほろ苦い喪失感は私には心地よかった。

 忘れていた遠い思い出も蘇り、爽やかに本を閉じたのですが、この「黒井千次」という作者が何か気にかかる。

 そこで検索してみると同世代ということで柴田翔と比較するサイトがいくつかあって驚いた。

   柴田翔・・といえば「されど、われらが日々」。

   実家の本棚にあったので昔読んだ。

 感動は覚えたけれど女性の立場から読むとちょっと面白くなく、「私たちはおそらく老いやすい世代なのだー」のくだりを書評などでよく批判されているのを目にすると、私も「まだ若いのに・・・・。書き急いで、この結論に持っていきたかったのかな。」などと思ったりした。(ちなみにこの小説にもあまり私が好きではない言葉が登場する。でもそんなことに拘るあたり本当の本好きとは言えませんね・・・)

 高校生、大学生ーという違いはあるが「春の道標」のような爽やかな気持ちにはならなかった。

・・・と言って柴田翔の喪失感とあの空虚な感じも私が多少好んでいることは間違いなくどちらが好きかーと言うと即答は出来ない。

 自明の事だけれどその時代の空気、雰囲気の捉え方は人それぞれ。。

 こんな風に同時代を描く、異なる小説をそれぞれ比較しながら勝手なことをいろいろ考えたり、思ったりするのも読み手の楽しみであると思った。

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昔みたい  -田中康夫

田中康夫さん。   

昔からあまり手にしなかった作家です。

バブルの時代をリアルタイムに生きた私はあまりあの時代が好きではなかった。

そのせいかもしれないが洋服やらのブランド名が数多く登場する小説は少し苦手。(例:彼女はエルメスのニットに身を包み・・・など)

せっかくの楽しい夏休みの旅先で苦手な同級生の男子にバッタリ出会ってしまった感じ・・といえば例えがおかしいだろうか。

小説、文学の世界でくらい現実世界から離れていたいという本音がある。

どちらかといえば「一人、海で風にふかれていたい」・・こういう文章に心魅かれる。

そんな私なので、純文学のほうを好んで読んでいるのかも。

前置きが長くなったが、田中康夫さんの短編「昔みたい」を読んだ。

「なんとなくクリスタル」と較べスタイリッシュな点は同じだが、フレンチレストランのくだりに多少スノッブな香りはするものの、基本は主人公の内的描写に終始している。  

   何の思想もないOLの恋人や漠然とした将来への不安。

なんとなくクリスタル・・ならぬなんとなくイージーであったあの時代や、私自身がイヤでも思い起こされる。

そしてそんな自分を振り返りたくはなく、私は彼の小説を避けて通っているのかもしれない。

(あんまり感想っぽくなくてスミマセン)

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「海辺のカフカ」の前にカフカ

村上春樹さんの「海辺のカフカ」をもう一度読み返してみたいと思い、その前にカフカの「変身」を読むことにしました。

10代の頃、数回トライしたものの難解で、虫が大の苦手な私にはその良さも意味もわからず中途で挫折。それっきりになっていたので・・・。

今回読んでみて大変しっくりときた。

これが年齢を重ねるということなのだろうか。。

朝起きると自分が虫に変身している。自分以外の何者かに。

これを私は心の闇、心の病・・・と解釈したのだが違うのだろうか。(他にも解釈は人それぞれだろうけれど)

そうすると物語が妙にリアルに迫ってくる。

私も、そして病める現代、誰しもこのような状況に明日の朝佇む可能性を秘めている。

一家の唯一の稼ぎ手である主人公グレゴールの状況が全く変わってしまったことへの家族、周囲の冷酷さ、残酷さ。

変わり果てた姿になった後も、彼は静かに以前の自分を懐かしみ、そして豹変した母や妹に変わらぬ暖かい愛情を抱き続けるのである。

とりわけ妹を思う心は哀しい。

そんなグレゴールは誰からも顧みられず、放置され、ついに息絶え、家政婦の女にチリのように掃き捨てられるのだ・・・。

この物語を、胸をしめつけられることなく読み終えることが出来る人はいるのだろうか?

・・・・・いるように思う。

そしてそういう人が生きやすい世の中なのかもしれない。

  哀しみに満ちた小説であった。

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春、バーニーズで -吉田修一

バーニーズはショップがあると何か買うわけではないがつい立ち寄ってしまう。

黒一色の表紙と春らしいタイトルに魅かれ、このいつかの芥川賞受賞作品を読むことにしました。

石田衣良さんの小説のようなイメージを抱きつつ・・・。

フランソワーズ・サガンはメランコリー、バルコン、ペルスィエンヌという言葉が好きだった。  私も理由なく魅かれる言葉は、ゆらぎ、まどい、たそがれ、刹那・・・など数知れずある。     と同時に日常多用していながら好きになれない言葉というのも数多い。

「春、バーニーズで」は、冒頭、主人公が妻子と訪れたバーニーズで昔、恋人だったオカマとばったり出会ってしまう所から物語は始まる。。。

確かに過去を振り返るとき、この主人公のように選び取らなかった選択肢に思いを馳せるーということは、日常多々ある。

ほんの些細なことが人生の分岐点であったりーということもあった。

読みながらそういう思いは胸をかすめるものの、先述のように私の個人的嗜好の問題なのだがオカマということばが、あまり・・・好きではない。

そしてそれがどうしても気にかかり、ついに最後まで物語に心が入っていけなかった。

なんとも勝手な理由であるが・・・。

ザンネン。

でもタイトルはとても素敵だ。

「春、バーニーズで」なんて。

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